Upended Toy Box

映画や漫画の感想や考察。

"女の子のおもちゃ"を救ったトイストーリー3

※この記事にはトイストーリー2と3のネタバレを含みます。

 

 

 

1、私とトイストーリー

 

トイストーリーと出会った頃の私は、まだ物心つく前の女の子だった。

父の友人からプレゼントされたビデオにたちまち夢中になった私は、母曰くテレビに食い入るようにそれを何度も何度も再生し、まだ舌の回らない言葉で「といっとーりー、といっとりー」と呼び始めたらしい。

トイストーリーが始まると、私も自分のおもちゃをテレビの前へ大集結させた。

スケッチのおもちゃも、マイクのおもちゃも、貯金箱も、そしてアメリカ製でラジコンカーとセットになったウッディとバズの人形もあった。ボタンを押すとちゃんと喋る。

私はまるでアンディのように、それらを広げて、おもちゃたちが会議をする様子を真似ながらトイストーリーの世界へ浸りきるのが大好きだった。

 

やがて小学生低学年頃になると、トイストーリー2の上映が始まった。

家族で映画館へ見に行ったことを昨日のことのように覚えている。

期待を裏切らないハラハラドキドキするストーリーに可愛い新キャラクター、ウッディの葛藤に固唾を呑んで、スタッフロール中のNGシーン集に大笑いした。

上映が終わった後もDVDを購入し、これまた何度も繰り返し見た。

 

しかし同時に、トイストーリー2は、私の心の奥底にじわじわと大きなしこりを残してしまった。

それは2のなかで最も印象に残ったウッディが出会ったカウガールのおもちゃ、ジェシーの過去エピソードが原因だった。

ジェシーには昔エミリーという女の子の持ち主がいた。

唯一無二の絆で結ばれたおもちゃと子供で、いつも一緒だった。

彼女に愛されて、ジェシーはこの上なく幸せだった。

けれども時が経つにつれエミリーは変わっていった。

部屋に満たされていたジェシーのグッズは、ジェシー自身と共に薄暗く埃っぽいベッドの下へ押しやられ、代わりにピンクの化粧道具や歌手のポスターでいっぱいになってゆく。

ジェシーの、大切な友達に忘れられて行く不安と寂しさ、それでもいつかまた……と恐怖に震えて待ち続けた期待が生々しく描かれていた。

ジェシーは結局そのまま捨てられてしまった。実際には寄付だが、ジェシーには同じことだった。強いトラウマが残り、子供のおもちゃになってもまた飽きて捨てられるだけと人間不信を抱いてしまう。

 

私はアンディが男の子であるとか、自分が女の子であるとかそんなことはどうでもよかった。

男の子であろうが女の子であろうが関係なく、私はアンディと、あるいはウッディと同じ気持ちになってトイストーリーにのめり込んでいた。

それなのに、このエピソードによって急に線引きをされ、突き放されたように感じた。

 


「女の子は男の子よりも早く大人になる。

そして何においても恋やおしゃれを優先するようになる」

 


このエピソードは別にそんなことを示すつもりはなかったかもしれない。

でも現実に、女の子についてそういう空気があり、実際にそう口にする大人がそこかしこにいたからこそ、単なる映画の表現では済まない、無意識の暗示として差し迫ったものがあった。

2のヴィランであるおもちゃプロスペクターの最後は、女の子に持って帰られるところで終わる。

そんなところも、まるで女の子のおもちゃになることが罰で、おもちゃにとって嫌なこと、不幸なことであるかのように感じられた。

 

あらゆるコンテンツに蔓延している、男にはこの良さが分かるが女には分からんだろうというような女人禁制の空気感を、トイストーリーにも感じてしまった。

だから分かってしまった。

トイストーリーは"男の子向け"なのだ。

私は対象じゃない…………。

女の子はおもちゃの本当の相棒にはなれないのではないか……。

女の子はどうせ……………。

 

トイストーリーが好きな気持ちが否定されていくかのようだった。

 

私はそんな呪いに必死であらがった。

もう遊ばないでしょと小さい頃のおもちゃを捨ててしまおうとする母を慌てて止め、あらゆるきゃぴきゃぴとした"女の子らしい"ものを遠ざけ、おしゃれを嫌悪し、ベッドの上に古いおもちゃを置くのをやめなかった。

一緒に過ごしたおもちゃたちの思い出を、決して忘れてなるものかと、エミリーのような酷くてつまらない女の子になるものかと、しがみつき、成長を拒否した。

 


そう踏ん張り続けて10年以上が経ち、

トイストーリー3を迎えたのは、私もアンディと同じく大学生になった頃だった。

 

鑑賞開始5分で既に泣いていた。

映画がラストを迎えると涙と嗚咽が止まらず、ほかの客がもうみんな出てしまって、映画館の清掃スタッフが困った顔になってしまうまで、腰が抜けたのかと思うほど立ち上がれなくなってしまった。

死ぬかと思った。

 

大人になったアンディにもう遊んでもらえなくなったウッディの一途な想いで泣き、

ロッツォの切ない過去に泣き、

ごみ処理場で手を取り合うバズたちに泣き、

そして最後に、ウッディは子供と共に遊ぶ喜びを思い出させてくれた新たな子供のもとで、仲間たちと共に過ごすことを選んだ。

そしてそんな仲間を決して見捨てないというウッディの気持ちを汲み取り、アンディがおもちゃたちを託したのが、

ボニーだ。

 

 

 

 

 

 

女の子だった。

 

 

 

 

 

 

私は救われたような気がした。

女の子もカウボーイの相棒になることができるのだと、ただただこの上なく嬉しかった。

子供の頃の自分をボニーに重ねることができた。

ウッディは子供が男の子かどうかなんて、気にしていなかったことが分かって、全身の力が抜けるほど安堵して、涙が止まらなくなったのだ。

長年のコンプレックスからゆっくりと解放されて、私も"女の子らしい"ものに、"女の子らしい"というラベルをつけてやたらめったらに嫌悪するのは間違っていると思うようになれた。

おもちゃ、もしくは子供の頃好きだったものとの関係に、性別は関係ない。

男の子であれ女の子であれ、忘れてしまう子もいれば、そうでない子もいる。

 

 

 

2、"女の子のおもちゃ"の復権

 

トイストーリーのスタッフは、今までのシリーズが女の子に冷たく、男の子目線に偏った映画だったことに自覚的になりながらトイストーリー3を製作したのではないか……と思う部分がもう一つある。

それはバービー人形の描写だ。

 

私はリカちゃん派だったので、バービーの設定を詳しくは存じ上げないけれど、

でもファッションリーダーであり、女の子たちの憧れ的存在であるというイメージを持っている。

しかし、2のバービー人形は代表的といっても過言でない女の子のおもちゃであるにしてはどうも様子がおかしかった。

2の彼女たちは、女の子たちの憧れ……というよりは、

男キャラたちから鼻の下を伸ばして見られる「セクシーなねえちゃん」

という扱いだった。

NGシーン集のなかに、今見るとぎょっとするような場面がある。

プロスペクターが二人のバービー人形にデレデレとした顔をしながら手を取り、

「君たちにトイストーリー3(次回作)で役をあげよう」

と言う。

皮肉めいた冗談のつもりだったかもしれないが、これが普通にギャグとして劇場に流された時代だったし、提示にまんざらでもなく応じているかのような17歳の設定であるバービー人形を配した。

当時の私はこれを見ても意味が分からなかったのだが、現在は♯Me tooの発端となった、映画監督のセクハラ問題を想起するような内容だと感じざるを得ない。

ディズニーもそう思ったのか、新しいBlu-rayからはこのシーンを削除している。

 


奇しくも3で、バービー人形は再登場する。

けれども、2に登場したバービーとは同じ人形が元だとは思えないほど全く様子が違っていた。

にこにこといつも愛想笑いをしたり、ただ不特定多数からセックスシンボルとして見られるような様子はどこにもない。

愛情深く、仲間たちのために戦おうとする、自分の考えと信念を持った一人の中心的なキャラクターとして活き活きと描かれていた。

 

そしてバービーのボーイフレンドであるケンにも言及しなければならない。

サニーサイド保育園でバービーと運命的な出会いを果たしたケンは、仲間との会話でこんなことを言われる。

 

「ケンはいい女ゲットしたんじゃないの〜?」

ケン「やめてくれ、彼女はそんなんじゃない!」

「優しいなぁケンは、”女の子のおもちゃ”だもんな」

そう茶化されてケンは拳を握り、強い口調で言い返す。

 


ケン「違う!僕は”女の子のおもちゃ”なんかじゃない!」

 


”女の子のおもちゃ”であること。

それがネガティブな意味で使われてきたことがはっきりとわかる場面だ。

ここでこの言葉が意味しているのは、女の子のおもちゃだから、ケンはなよなよとして男らしくない……などという男女差別的偏見に満ちたものだろう。

重要なのは、この後にどんでん返しが起こったことだ。

ケンはバービーとその仲間たちの想いを汲み取って心を入れ替え、独裁者ロッツォに立ち向かおうとする。

そしてロッツォが去ったあと、サニーサイドを笑顔の満ちた最高にかっこいい場所へ導く良きリーダーとなる。

ケンの優しさは際立っている。

そんなケンのどこにそんな風に蔑まれる要素があるだろう。

 


今までになかった、女の子のおもちゃの活躍。

それがこのバービーとケンというカップルに託されていたように思う。

 

 

 

3、最後に

 

トイストーリーはかつて私を傷つけ、呪いをかけた。

でも、そのことについて、堅い言い方になるけれども、責任も取ってくれた。

 

過去の作品のなかには、素晴らしい作品ではあるが、現代から見れば差別的、あるいはステレオタイプと指摘されうる表現が平然と散らばっている。

今回の私のように幼い頃からの思い出深い作品は特に、そういった問題があることから目を背けたくなってしまう。

昔のことだから仕方ない、素晴らしい作品なんだからいいじゃないか……と。

けれども、思い出の作品の全てを否定してしまわない形で、アップデートすることはできる。

トイストーリー3からはそういう希望を感じた。

 

ディズニーが実写化という形で過去作品をリメイクすることを次々に進めている。

これは古い作品を現代の価値観と擦り合わせようとする挑戦でもあるのだと思う。

最近では、私にとってディズニープリンセスのなかで一番好きな『リトルマーメイド』もそうだ。

アリエル役が、”白人ではない”ことが賛否両論になっている。

原作"そのまま"の再現が見たいと望む気持ちも分かる。

正直なところ、肌の色の問題は日本で生まれ育った私の身近になかなかなく、出来る限り知ろうとしているが深く理解することはできていないと思う。

けれどもある性別、あるいはある人種など、この世界に存在するはずなのに除外され続け、素晴らしい作品の数々に自分は参加できない、夢見ることもできないのだと思い知らされることがどれほど悲しいかは知っている。

 


トイストーリー4の上映が迫っている。

予告編発表当初、ボーの様子について波紋があったが、そんなこんなで私は心配していない。

心配なのは、今度はハンカチやティッシュを一体どれだけ持っていけばいいのか。

……楽しみを通り越して怯えている。

この記事を書きながらでも泣いているのに。